History〜小水力発電と中島大の物語

第2章:1988〜92年 日本の市民運動の大きな転換点

1988年~92年頃は、日本の市民運動(とくに環境問題に関する)の大きな転換点だったと思います。
88年4月に開かれた「原発止めよう2万人行動」は、もともと「1万人行動」として呼びかけたところ予想を遙かに上回る方が集まったため、当日になって名前を変えたものです(警察発表は8千人だったと思います)。集会・デモで子連れのお母さん方が目だつようになったのがこの頃からで、デモ(次第にパレードなどというようになりました)の雰囲気がだいぶ変わりました。私が参加する集会でセクトの姿を最後にみたのがこの2万人行動だったと記憶しています。市民参加の基盤が拡がったため、労組の力に依存する必要もなくなりました。
そしてこの時期に、市民運動のプロ化も進んだと思います。「市民運動のプロ化」というと悪いことのように言う方もおられますが、当時の私たちはプロ化をめざしていました。
理由の一つは、イベントにしろ日常活動にしろ、フルタイムスタッフがいないと規模の大きな運動を継続することができないことです。それまではフルタイムスタッフを労組などに依存していましたが、労働運動と市民運動ではテーマの点でもスタイルの点でも違いがあるので、自前の事務局が必要でした。 もう一つの理由は、専門性です。エネルギー政策や環境政策の提言を行い政策論争に加わるためには、スタッフにも専門性が求められます。もちろん必要に応じて専門家への委託も行いますが、スタッフにも一定の水準が必要です。
1992年に地球サミット(国連持続可能な開発会議)がリオデジャネイロで開催され、日本の環境団体からも多数が現地に向かいましたが、中心メンバーの何人かは環境団体のフルタイムスタッフとして行っています。
私自身も、大学を卒業してから7年間のサラリーマン生活(財団法人ふるさと情報センターで、村おこしのPRみたいな仕事をしていました)に終止符を打ち、水車むらで出会った仲間たちと(株)ヴァイアブルテクノロジーを設立し、自然エネルギー関係のコンサルと機器設置を行う仕事に踏み出しました。
NextContents 1990年代
  • 第1章:1980年代 第一次エコロジーブーム
  • 第3章:1990年代 日本の市民運動が大きく成長した10年
  • 第4章:2000年代 独立した小水力発電団体の立ち上げ
  • 第5章:小水力開発支援協会の設立
  • 第6章:これまでと、これから